スマホ中国語

故郷よりも故郷

(三)

それから八年の歳月が流れ、1994年が巡ってきた。この年、史上初めて、地方都市における「アジア競技大会」が、広島の地で開催されたのだ。90年の北京大会の後を受けたこともあって、中国のテレビ放送は連日のように大会の中継と広島の街並みを映し出したそうだ。

その冬、北京に里帰りした私は、二度とあの時のような問を受けることはなかった。それどころか、私が広島に留学中だと知って、ある初対面の人が言った言葉がいまだに記憶に新しい。

「日本人はなかなかスゴイ。あの広島を見ればわかるね。」

49年間も悲劇の代名詞であった「HIROSHIMA」は、国境を越えた友好の場「アジア競技大会」をきっかけに、立ち直った姿をようやく世界に発信することができた。

(四)

その翌年は被爆50周年当たる1995年。広島では、広島市と中国新聞社主催の記念事業、「あの日あの頃―いろしま50年回顧展」が開かれ、私は会場に足を運んだ。そして入口からほどなく、ある一枚の古いモノクロ写真の前から動けなくなった。

壊れた剥き出しの鉄筋の上に、裸足のまま、もろ肌脱ぎになって槌を高く振るっている男たち。傍らでシャツの袖で拭っているのは、汗か、それとも涙であろか…。「相生橋の復旧工事」と題されていた。

私にとって、「広島」とは、『黒い雨』の情景から近代都市へと生まれ変わった、まさに奇跡の街であって、正直なところ、その過程についてはあまり考えたことがなかった。

改めて考えてみると、原爆によって深く傷つけられた人と街にとって、その後はゼロどころか、マイナスからのスタートであった。大きな悲しみを胸の底に抑えながら、復興作業に励んだ人たち。明日へのわずかな希望を捨てずに頑張ってきた日々が、平和な広島の今日へとつながっているのだ。

「75年間は草木も生えない」と宣告された広島は、人々の血と汗と涙、さらには夢によって蘇った。そして今、その凛とした美しい姿で、世界中の未だ恵まれない人たちに「夢」と「勇気」を与え続けている。

平和巡礼の地として世界中から人々が集うヒロシマの夏、全国映連の皆様との再会を楽しみにしております。

  山本袁葉

編集者  丁 雷