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背水一戦 (五)

  「すみませんが、在職証明書をお願いします」 「目的は?」とカウンターの向こうに座る職員。 「護照の手続きをするためです」と答えるや、爆弾でも落ちたかのように、窓側に座っている人まで、全員一斉にこっちを向いた。「護照」とは、当時庶民とは無縁の響きだったのだ。 「えーっ、まさか日本へ?」という声が飛び交った。 「いえいえ」、私は手を振りながら「まず試験に合格しないと」 「護照を取るということは、試験はもう形式だけじゃないですか」と、目の前の職員。 ・・・・・・ 2、3日後、教職員食堂の近くで、アナウンス学部のある先生が私を見かけると微笑みを浮かべ、すれ違いざまに声をかけられた。 「日本へ行くそうですね」と。今までその先生とは、会釈ぐらいしかしたことがなかったのに。 食堂に入って列に並ぶと、周りから宝くじの特賞当選者でも眺めるような視線を浴びる。中には、食事中の隣の人に肘を触れて、「彼女ですよ」と知らせ、振り返らせる者もいた。 当時、私の月収は57元(約4000円)だった。それでも、同年齢の一般労働者の倍近くになる。今回の文部省奨学生の待遇はというと、授業料・医療費は無料で、生活費、教材費、旅行手当等として1年間に175万円が支給される。しかも、償還は免除だ。単純に計算すると、当時の私の年収35年分に相当する。しかし、日本の物価高は有名なので、どれくらいの出費になるのか見当もつかない。それより何より、もし試験に落ちたら、どんな顔をして再びこの食堂に入ったらいいだろう。 「天國」と「地獄」の分かれ道に立たされ、まさに「背水一戦」に臨む私だった。     著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷    

背水一戦(四)

  人事課へ手続きをしに向かいながら、2年前、就職したばかりの頃のことを思い返していた。 ある日、外国語学部の学部長から、我々幹部としては、本学部の「中国共産主義青年団」の総書記に推薦したいが、兼任してみる気はないかという打診があった。身に余る話だが、出世コースよりも学問に邁進したいのが正直な気持ちだ。しかし、あと30年以上もこの職場にお世話になることを考え、結局、1年の約束で務めさせていただくことにした。クリスマスの茶話会を企画したり、四年生と一緒に名所旧跡を探訪したり。そして、黄土高原緑化キャンペーンに参加し、学生と一緒にヒノキなどの種を集めた。なんと、うちの学部が一番早く、しかも多く寄付したので、大学当局から表彰もされた・・・。 あの経験があっての今回のチャンスがも知れない。     著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷

背水一戦(三)

  数日後の6月1日、初夏の微風に頬を撫でられながら並木道を歩いていると、講師棟の方から、傅先生の姿が現れた。 「おはようございます」と挨拶をすると、「袁さん、今、あなたを探していたとことですよ」 「・・・・・・・・・」 「来ました!来ましたよ!」と満面の笑顔。 「何がですか?」 「日本へ留学したいですが」 留学!?あまりにも贅沢な響きだ。一週間でも通訳で日本に行けるだけで、夢は叶うのに。 「そんな・・・」 「実は、日本政府文部省の奨学生受験の枠が一つ、うちの大学に来ました。初めてのことですね。先ほど、学部幹部の緊急会議が開かれて、このチャンスをあなたに与えることに決定したわ」 一瞬、視界全体が薄いピンク色に染まって見えた。桜色よりもう少し濃い目で・・・。こんな感覚は初めてだ。手をつねってみると、確かな痛みを感じた。ああ、夢ではない。 ・・・・・・ 傅先生が机から取り出した大きな封筒には、「日本大使館」の文字があった。心臓がバクバクして、破裂しそうだ。開けてみると、受験申込書。一年間の留学ということは、春夏秋冬の日本を、すべてこの目で見られる。私って、なんと幸運なんだろう! 「これから何をしたらいいですか?」と尋ねる声が少し震えていた。 「6月10日が試験日なので、それまでに護照(パスポート)申請をしなければなりません。そのためには、在職証明書や卒業証明書、成績証明書、そして健康診断の合格証なども必要です。9日間しかないので、急がなくちゃ」 「えっ?まだ合格できるかどうか分からないのに、護照ですか」 「いったん合格したら、色んな手続きをスムーズに進めるため、と大使館から言われたんです。まあ、万事「慢慢的」な中国のやり方をよくご存じですからね」 そうすると、あちこちへ行って時間を費やすし、普段どおり講義もしないといけないので、今から寝ずに受験勉強しても時間が足りない。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷