スマホ中国語

友情の輪

  日本の素顔を初めて目にしたのは、71年名古屋で開催された世界卓球大会の記録映画だった。それまで中国の劇映画に出てくる日本兵と打って変わって、優しそうな人々で、日本に対するマイナスイメージを180度変えてくれた。 07年「全国映連」の方ご紹介で、彼の地で講演をさせていただいたのは、夢のような体験だった。主催側の「あいち平和映画祭」実行委員の方々と楽しい交流をした後、なんとも言えない寂しさを覚えた。 数カ月後、あるメンバーが日中国交正常化35周年記念番組「赤いスクープ」(名古屋テレビ)のDVDを送ってくださった。名古屋はたまたま日中国交回復のきっかけとなった「ピンポン外交」の舞台になったが、その後も、日中友好交流の先駆者的な役割を果たしてきたことを知った。名古屋がますます憬れの地となった。 今年は、「平和映画祭」のパンフレットにメッセジを載せていただいた。伊藤千尋氏を講師に迎え、映画祭は大成功だったというお手紙を受け取り喜んでいた私に、さらに書留が届いた。 「決算済みで黒字となり、次回開催の資金、中津川映画祭へメンバーを派遣する費用に充て、そして残りを袁葉さんの祖国の被災者の人々のためにカンパさせていただくこと、これらを全員一致で決めました。」とあった。 数万円の義捐金に、例の記録映画で見た日本人の姿が重なって見えた。名古屋の方々の中国への思いが、この私を通して伝わっていくと思うと、胸が高鳴っていた。 広島県は84年に四川省と、広島市は86年に重慶市と姉妹都市を結んでおり、私は通訳や翻訳の仕事で携わってきている。 早速、窓口である「広島県日中親善協会」へ経緯を説明したところ、名古屋の方々の思い込められた「平和映画祭」からの義捐金なので、大変感謝していただいた。直ちに「『四川省人民対外友好協会』に寄贈させていただきます」という礼状が、実行委員会宛に送られた。 このように、映画を通して結ばれた友情の輪が、幾重にも広がっていく・・・、なんとありがたいことだろう。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷  

「軽生」する日本人?

  2008年―中国人が鶴首して迎えた年だ。アヘン戦争以後の長い間、西洋人から「東亜病夫」(東亜の病弱な人)と言われていたこの国で、オリンピックが開催されるからだ。 とことが今年に入り、「餃子事件」や「チベット騒乱」、「聖火リレーへの妨害」などの芳しくないニュースが相次いで流れており、胡錦涛国家主席の訪日によってさえ、その暗雲を吹き飛ばすことができなかった。 かてて加えて、世界的にも稀に見る大地震が、中国の四川省を襲った。まるで今まさにジャンプしようとした人間が、顔面パンチを喰らった上に、脚までへし折られたようで、もう「オリンピックどころではない」と思われた。 とその時、日本のマスコミは大地震報道の翌日から、救援募金を呼びかけた。なんとコンビニにまで募金箱が・・・、胸が熱くなった。 さらに外国からの救助隊の中では、日本が先頭切って現地入りした。任務を終えた隊長は、生存者の救出に至らなかったことを悔やみながらも、被害者からのカップ麺の差し入れや、子供がチョコレートをくれたことを述べた。命がけの救助活動が、衣食にも事欠く人々にも感動を与えたのだろう。 しかし、中国人の心を打ったのは、なんと言っても、瓦礫の中から遺体が運び出される度に、日本の救助隊が黙祷する姿だ。 日本人の「生死」に関していえば、中国人はつい、「切腹」や戦時中の振る舞い、自殺者の多さなどから、「軽生」(生命を軽んずる)と結びつけてしまう。日本人の救援活動ぶりは、テレビを見た中国人の間に大きな波紋を広げた。日本を快く思わないと書いたある中国人でさえ、ネットに次の文を載せた。 「・・・日本の救助隊が今回被災地で犠牲者に捧げた黙祷は、私たちの心を強く揺さぶった。我々は知っておかなければならない。彼らが救助活動中に見せる死者への哀悼と告別、それはどの隊員も真摯な態度で、身体中から人間性の輝きを放っている。その悲しみ、その情は、天地を揺るがすものである。(中略)我々は言いたい。『友よ、いつか中国人は必ず恩返しをします。』」(筆者訳) このような文章は、ネット上に数多く寄せられている。 そもそも、両国の「死」に対する考え方は大きく異なっている。中国語には「死生観」という言葉はなく、「生死観」となる。中華人民共和国成立後、死後の世界を迷信として批判してきた。今ほとんどの中国人は無神論者である。「死」とは体の機能が停止して土に帰ること、一種の自然現象として捉える。一方日本では、肉体が無くなっても魂は生きている。「千の風になって」の大ヒットの所以だ。また、中国には昔から「善人は死んでも善人だ、悪人は死んでも悪人だ」という考えがあるのに対して、日本では、「どんな人でも死んだら仏になる」(死者に鞭打つのを嫌う)となる。 日中関係が近年ちぐはぐになっていた。「遠親不如近隣」(遠い親戚より近くの他人)日本と中国とは、喧嘩しても引っ越すことのできない宿命的な隣人になっている。 今回の大地震は、奇しくも中国人の日本人に抱くイメージを大きく変えてくれた。これを機に両国民が互いの伝統文化や風俗習慣はもとより、ものの考え方の相違についてより理解を深めていけたなら、唐の時代のような友好関係が続くのではないだろうか。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷

カフェオレ色の旅

  目覚めた時、カーテン越しの光は普段よりも弱かった。雨かしら・・・。中国で「春雨貴如油」(春の雨は油のように貴重)と言われるほど、この季節に雨が降るのは珍しい。うきうきしながらカーテンを開けて、思わず息を呑んだ。 降っているのは雨ではなく、砂だった。空はカフェオレ色の帷が下り、屋根や街路樹も同色のクロスに覆われ、辺りは静まりかえっている。 昨年三月二十日のことである。 いつもは大学の夏休みに里帰りするので、北京で春を過ごすのは十七年ぶりのことだ。窓の外を眺めながら、大学時代、長城の麓で植林キャンプに参加したことを思い出した。とっくに防風林に育ったはずなのに、黄砂はものともせずに飛び越えてきたのだ。どんよりとした空を上げているうちに、瞼が再び重くなってきた。カタカタカタ・・・・・・と窓ガラスの音で目を目覚まされた。風が、片手で「空の帷」を、もう一方の手で「地上のクロス」を振り回し始めたのだ。さっきまではっきりと見えていたビルの群は、たちまち「黄塵万丈」の中に姿を消してしまった。 昼ごろになって、スーパーへ行くため階段を下りて扉を開けたとたん、顔は砂入りスプレーを吹き付けられたよう、髪は逆さまに結い上げられた感じだ。五十メートルぐらいしか離れていないスーパーは、眼鏡を掛け間違えたかのように目の前にぼんやりしている。入口に向かって歩いているつもりだが、体がついつい斜めの方向へ行ってしまいそうだ。周りを見ると、自転車を支えながら歩く人、スカーフで頭をすっぽりと覆って顔に「花」が咲いている人、スーパーの白いポリ袋をスカーフ替わりに被っている人・・・ 夜のニュースでは、十年ぶりの「特大沙塵暴」が内モンゴル・東北・華北平野を席巻したと報じられた。 ひどいところでは視界が五十メートルしかなくて、車の衝突事故が相次いだそうだ。それは中国にはとどまらず、翌日お隣の韓国では幼稚園と小学校が休校になったほど。大きなマスクをしているソウル市民の写真入りの記事を見ると、86年春のことが思い浮かんだ。 日本で初めて桜の季節を迎えた時のこと。友人の車でお花見に行く途中で、「山が霞んで見えるのは、あれは黄砂ですよ」と、友人の何げない一言にドキッとした。 えーっ?こんな遠くまで飛んできて、日本人にも迷惑をかけているとは! あれから毎年春になり、「黄砂到来」と聞くと、なんとなく後ろめたい気持ちをいだいたものだ。 しかしある年、春の霞んでいる空を眺めながら、ふと思った。目に見えないほどのこの小さな砂粒は、中央アジアから季節風に乗って中国大陸、朝鮮半島、日本海を経てやってきた。ずいぶん長い旅をしてきたなァと、その「生命力」に感動すら覚えた。ところで、旅立った黄砂たちも私のように、時々里帰りしたくなるのだろうか・・・ 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷