スマホ中国語

ウォーキングマシンの上で歩きながら…

  (一) 指先で窓ガラスの曇りを拭うと、白い「レースのカーテン」が現れた。「わあー、珍しい!牡丹雪だ」その向こうには白銀の世界が広がっている。風に揺らめく雪の舞いをうっとりと眺めながら、「寒そう!」今日はジムへ行くのはやめようと思い、再び布団に戻ろうとしたところ、ふと、斜め向かいのビルの屋上に二つの人影が目に映った。補修工事の作業員である。土曜日の朝早くから、風雪の中で働いているその男たちの姿は、まるで骨太の墨絵のように見える。思わず小さなガッツポーズをして、ベッドから跳ね降りた。 (二) トレーニングルームに入ると、南国の微風に迎えられたような感じがした。鈍いシルバー色の運動器具、それを動かす金属同士の摩擦の音…どれもこれも無機質なものではあるが、なぜかここに入るたびに、仕事の疲れなどいっぺんにどこかへ吹き飛ばされてしまう。 ここには鮮やかな色もある。赤、黄、青三色のトレーニングマットだ。一枚約2メートル四方のものが9枚組み合わされており、遠くから見るとルービックキューブを連想させられる。その上に座ると、まるで境界線がガラスで仕切られているように、みんな隣同士のことを気にせずに、思い思いに自分の体を動かすことができる。 普段の生活の中で、時間と空間の軸で計れば、自分と出会うはずのない人が今、そばに臥して脚を持ち上げたり、屈伸運動をしたりしている。「男女7歳不同席」という儒教の教育を受けていた祖母が、もしこの光景を見たら、目を覆いたくなるに違いない。 (三) 祖母は80年代に亡くなるまで、ずっと纏足をしていた。1911~12年の辛亥革命によって、纏足の習慣は廃止された。しかし、広大なる中国では浸透するのに年月がかかったのだ。幼時から小学生くらいまで纏足をしてしまうと、足の骨が変形し、布帛を解いても普通には歩けないため、やむを得ず続ける人が後を絶えなかった。 纏足をした女性の頼りなげに、男性は労わってあげたいという気持ちが湧いてくると言われる。良縁を望む子女にとって、纏足は絶対に必要な条件だった。 漢民族の慣わしとして約千年も続いてきたのに、廃止になったのが、私の生まれるほんの半世紀前のことだと思いと、ギリギリセーフのような感じがする。 ところで、日本語には「いい汗」という表現があるが、中国語にはない。反対に「臭汗」という言葉はある。昔、良家の女性の嗜みといえば「琴、棋(囲碁・将棋)、書・画」が挙げられる。また、それらは君子の教養を量る尺度でもあった。一方、肉体労働や用心棒に雇われる人のことを、「四肢発達、頭脳簡単」と見なしていた。 スポーツウェアにスニーカーで、ウォーキングマシンの上で見知らぬ男性と肩を並べ、汗を拭き拭き闊歩する私の姿。もしも祖先が目にしたら、さぞかし呆れることだろう。いや、かえって、自由を羨ましく思う人もいるかもしれない。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷

故郷よりも故郷

(三) それから八年の歳月が流れ、1994年が巡ってきた。この年、史上初めて、地方都市における「アジア競技大会」が、広島の地で開催されたのだ。90年の北京大会の後を受けたこともあって、中国のテレビ放送は連日のように大会の中継と広島の街並みを映し出したそうだ。 その冬、北京に里帰りした私は、二度とあの時のような問を受けることはなかった。それどころか、私が広島に留学中だと知って、ある初対面の人が言った言葉がいまだに記憶に新しい。 「日本人はなかなかスゴイ。あの広島を見ればわかるね。」 49年間も悲劇の代名詞であった「HIROSHIMA」は、国境を越えた友好の場「アジア競技大会」をきっかけに、立ち直った姿をようやく世界に発信することができた。 (四) その翌年は被爆50周年当たる1995年。広島では、広島市と中国新聞社主催の記念事業、「あの日あの頃―いろしま50年回顧展」が開かれ、私は会場に足を運んだ。そして入口からほどなく、ある一枚の古いモノクロ写真の前から動けなくなった。 壊れた剥き出しの鉄筋の上に、裸足のまま、もろ肌脱ぎになって槌を高く振るっている男たち。傍らでシャツの袖で拭っているのは、汗か、それとも涙であろか…。「相生橋の復旧工事」と題されていた。 私にとって、「広島」とは、『黒い雨』の情景から近代都市へと生まれ変わった、まさに奇跡の街であって、正直なところ、その過程についてはあまり考えたことがなかった。 改めて考えてみると、原爆によって深く傷つけられた人と街にとって、その後はゼロどころか、マイナスからのスタートであった。大きな悲しみを胸の底に抑えながら、復興作業に励んだ人たち。明日へのわずかな希望を捨てずに頑張ってきた日々が、平和な広島の今日へとつながっているのだ。 「75年間は草木も生えない」と宣告された広島は、人々の血と汗と涙、さらには夢によって蘇った。そして今、その凛とした美しい姿で、世界中の未だ恵まれない人たちに「夢」と「勇気」を与え続けている。 平和巡礼の地として世界中から人々が集うヒロシマの夏、全国映連の皆様との再会を楽しみにしております。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷  

故郷よりも故郷

  2011年の「映画大学」の開催地は広島である。この街との付き合いは、故郷北京よりも長くなった。話は25年前に遡る。 (一) 「次の停車駅は、ひろしま―ひろしま―」アナウンスが流れると、私はとても平然としてへいられなくなり、一人立ち上がってデッキへ向かった。新幹線は、長いトンネルの闇の中を疾走していた。広島…いよいよ広島。私は落ち着きを取り戻すため、目を閉じてみた。 大学時代、日本文学の授業で習った井伏鱒二の作品、『黒い雨』に描かれた「広島」。擬声語と擬態語がふんだんに使われ、活字から被爆の惨状がありありと目の前に浮かんできたものだった。あの時から、広島イコールが原爆、まるで切り離されない四文字熟語でもあるかのように、私の頭の中に焼き付いている。丸40年の歳月が経ったとはいえ、その土地をもうじき自分の足で踏むことになるとは… それは1985年10月3日、来日の翌日のことだった。 「間もなく広島に到着…」というアナウンスを耳にして、私はゆっくりと目を開けてみた。すると、そこには澄み渡った秋空の下に、ベージュと白を基調とした近代的なビルディングが一面に立ち並び、緑色の川が陽の光を映しながら穏やかに流れている。この「静」の絵とは対照的な「動」の絵は、電光石火のような勢いで走っている車の流れだ。 耳に残る「ひろしま」の響きと、目の前にの「広島」の景観とは、とても同一のものとは思えなかった。 「平和」と「活気」とが、まるで縦横の系のようにこの街の模様を織りなしている。「住めば都」という諺があるが、私の場合はこの街に「一目惚れ」だったと言ってよい。 (二) 瀬戸内海にいだかれたこの街は、私の前で四季折々の表情を繰り広げてくれた。しかし、何よりも心に残ったのは、見知らぬ人々からの温かい親切と、先生方の素晴らしいご指導だった。 実り多い一年間を過ごし、北京に里帰りした時のこと。同僚の教師と会うと、挨拶もそこそこに「広島の水は、大丈夫だった?」と真顔で聞かれ、逆のカルチャーショックを受けてしまった。 大学教授ですら、広島についてまだこの程度の認識?という嘆きを危うく飲み込んだ。しかし、一年前、自分もまるで同じようなものではなかったか。用意してきた、広島パンフレットや絵はがきを見せて説明すると、彼女の表情もすっかり晴れたのだが…。 その里帰りの間、知人と会うたびに私は落胆と説明を繰り返し、もどかしい思いを引きずって広島に戻ることになった。自分一人の力では、どうにもならない。十数億の中国人民の広島に対する認識は、まるで1945年8月6日で停まってしまったままではないか、と…。 著 者  山本袁葉 編集者  丁 雷